日々徒然

社会にの荒波に揉まれつつも49%後向き51%前向きに生きる。

3.11 東日本大震災、あれから一年

3.11、あの悪夢のような事件から1年経った。昨年の今日、2011年3月11日14時46分18秒に東日本大震災が発生した。日本最大のM9.0、甚大な被害も出て、絶対安全と言われてた原発地震で破壊され、放射線をまき散らす事態になってしまった。海の上を火がガレキに乗って移動、10mもの巨大津波、燃えて火の海になる石油コンビナート、泣き叫ぶ被災者の方々、地上波だけではなくBSも含む各局が永遠と報道・・・あの日のことをよく覚えています。あの地震被災者の方々が苦しんでいるのになにもできない自分の無力さを痛感させられました。
ネット上ではいろんな方々の叫びがリアルに発信されていました。怒涛の如く次から次へと溢れる情報の流れに戸惑っていたことを覚えています。印象的だったのはラジオの安否情報。被災者の名前とレンラククダサイというメッセージがずっと放送されてたのは深く印象に残っています。
テレビでも被災者の方のメッセージが多数放送されました。
ラジオではアンパンマンのマーチが繰り返し流されてました。それを聴いて勇気が湧いたとのメッセージ。アンパンマンのマーチが実は深い歌詞だということがわかりました。好きな歌が流れて勇気が出たという方もいて、歌の力はすごいと思いました。
観測史上最大の規模と言われる今回の震災で1万5854人と多くの方が亡くなられ、未だに3203名の方が行方不明です。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、行方不明者の方の発見、早期復興、原発事故の収束をお祈りします。

今回の震災でネットというメディアの可能性も注目されました。ネットで個人でも情報発信できるようになり、テレビ放送では伝えきれないような細かい情報が伝えられます。また、今回の震災で一人の中学生の違法配信から各局が公式ネット配信するという革命が起きました。
このネット配信は、停電などでテレビ環境がない人たちには大いに役立ったとのことです。また、東北地方では停電が長引いたために放送局の自家発電が切れ、放送できなくなっていた局が一時続出していたので。しかしその反面、デマ情報がネットで出回るといった事件も起こりました。
そのデマ情報も確認をされずに多くの人に広がってしまったので混乱が起きました。ネットが余計な混乱を招いてしまったのも事実です。個人でも情報を発信でき、便利になった反面、各個人にも情報を発信する責任とそれを信憑性のある情報か、有益な情報かを判断する能力が求められています。

3.11、あの日私はちょうど駅に向かう途中でした。日本全体が揺れたとのことでしたが、その時私は自転車に乗っていたため、気がつきませんでした。
地震を初めて知ったのは電車に乗ってtwitterを確認した時でした。
タイムラインを見ていると何やらさわがしい。皆のつぶやきを見て大きな地震が起こったということがわかりました。しかし、その時私は大きな地震が起こってるようだけど、そこまで大したものではないだろうとおもってました。ちょうど少し前に北海道で少し強い地震が起こっていたので、その程度だと思ってました。
大きい地震が起こって、東日本では騒がれているのに周りの人は気づいいる人もなく、平和な日常が展開されていたのには何とも言えない気分になったことを覚えています。
しばらくして、私は街の本屋にいました。店員の人がなにやら騒がしい。「東京の方ではかなり大きな地震が起こって、大混乱だ」店員の人が慌ただしくしてました。そこで、私はもう一度地震情報を確認しました。そこで、これは大きな地震が起こっているとうことがわかりました。
家に帰りテレビに繰り返し映される巨大津波の映像、燃えて火の海になる石油コンビナート、津波でなにもかもなくなってガレキの山になってしまった街。ここで初めてこれはとんでもないことになってしまったと気付かされました。
地上波だけではなく、BSも全局が報道されているのは異例の事体でした。東京では電車がストップし、帰宅難民がでてました。東北・関東と被害は凄まじく、大規模な停電が起きました。
twitterでは被災者支援情報や帰宅難民の人への場所提供情報など支援情報が繰り広げられていました。
しばらくCMもながれず、再開しても怒涛のAC地獄。ぽぽぽぽーんは流行語にもなりました。
しばらくの間自粛ムードになっていたのを覚えています。

この震災の被害で多くの道が破壊され流通も滞りました。とくに東北地方では石油が足りないとのことで石油がほしいという声が多数上がってました。
石油は車の燃料だけではなく、暖房や、自家発電にも使われてます。先にも述べましたが、石油が足りなくなり、放送局が放送出来なくなる事態に見舞われたり、病院の電気が足りなくなり、最悪の事態になる可能性がありました。青森県知事が言ってましたが、石油の一滴は血の一滴と、石油が生きるためには欠かせないものだと痛感させられました。
自衛隊方々の支援と米軍の支援は今回特に目を見張るものでした。そして、多くの海外から支援をいただきました。自衛隊の皆様と米軍の皆様、支援していただいた皆様に感謝です。

私は東北の岩手の方に親戚と、仙台の方に知り合いがいたのですが、親戚の方は少し経って連絡がつきました。親戚の方はそこまで被害はありませんでした。ただ、電話が繋がりにくいとのことでした。知り合いのほうはしばらく連絡がつきませんでした。しかし、無事だったようで、この自粛ムードを打破し、絶対花見をしてやると言ってました。

山口でも震災の影響はでました。震災直後は首都東京が被災さとことにより物流も滞りました。入荷が遅れる本とか結構ありました。弁当類も直後は少し品薄になりました。
水はしばらくの間、お店には並びませんでした。並んでも購入数規制がとられました。
電車の部品工場が被災したので、部品が足りなくなり、電車の間引き運転もされました。
そして、放射性物質風評被害の為か、国産肉が値引きされたのに全然売れてないところがありました。代わりに米国産の肉は品薄状態でした。

今回の地震では福島原発が被害を受け、放射線をまき散らし、メルトダウンになるなど事故レベルとしてはチェルノブイリと同程度のものになってしまいました。放射能汚染により今も多くの人が避難を強いられています。絶対安全だと言われた原発がこのような事態になってしまった。
あとになって、実は福島原発は耐用年数を超えて使用していたことや、バックアップの発電設備がそこまで高台に設置されていなかったなど、震災が起こらなければわからなかった情報も出てきました。そして、対応などが批判されるように、東京電力のひどい企業体質が露呈されるこことなりました。
東京電力福島原発震があれだけの被害を受けたのに、源地に近かった東北電力女川原発が無事だったということが特に物語ってます。
未だに避難地域は立ち入りが制限され、そこの廃墟と化した街は復興が進んでおりません。
原発事故の完全収束まであと30年以上はかかると言われています。今一度、原発への安全性を再確認しないといけません。
事故以来、街の人を見ると、反原発の声に耳を傾ける人や、ビラをもらう人が多くなった。国策で強引に推し進めていただけに国民の原発に関しての不信感が強くなっているように思います。

東日本大震災から1年経ちました。未だに避難生活をしておられる人もいます。昨年の漢字の一文字に「絆」という字が選ばれたように、今、人との繋がりが再認識されています。地震が起こったときに必要されるのは人との繋がりです。孤独死をする人もいる中で特に重要視されています。先にも述べましたが、今回の震災からは多くの支援を海外からいただきました。これも日本が普段から支援活動をしている賜です。
今一度絆について考えてみてみたらいかがでしょうか。

最後にもう一度、亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、行方不明者の方の発見、早期復興、原発事故の収束をお祈りします。