2016年(平成28年)8月6日、数年ぶりに広島にいった。その日は71年前の広島と同じ様な35度を超すとても暑い日だった。
平和記念公園にはとても多くの人が追悼に訪れていた。外国人の観光客も多数いて、原爆は海外からも関心が高いようだった。
今回は小学生以来、十数年ぶりに平和記念資料館を見学することにした。入館料はいつの間にか大人50円から200円に値上げされていた。
これから掲載する写真は広島平和記念資料館でしか見れない当時の貴重な資料。実際に現地で肌で感じて頂くのが良いのですが、遠方でなかなか足を運べない方の為に、雰囲気を感じて頂ければ幸いです。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍により、一つの原子爆弾「リトルボーイ」が投下された。この原子爆弾1つで、当時35万人が暮らしていた広島市は10秒も無い内に焼け野原と化した。照準は市中心部の相生橋が選ばれた。
これは有名な被爆者の蝋人形。戦火にまみれた市街地を苦しみ水を求める被爆者だ。
被爆者は1000度にも達する熱風で全身大火傷を負い、肌はケロイド状になり、酷い喉の渇きに苦しんだ。その為、水を求め川へ集まったが、その川を流れる水は既に原爆で放射能汚染された水だった。その水を飲んだら、放射線により、長い間下痢が止まらなかったと言う。この辺りの話はばたしのゲンにも収録されている。
8時15分で止まった遺品の時計
広島投下されたリトルボーイの模型
原爆投下直後の広島の被害状況、先程の原爆がこの模型の縮尺では米粒大である。原爆が如何に強烈で破壊的な兵器かと言うことが解る。この原爆で35万人都市広島は跡形も殆どなく消し飛んでしまった。
その爆風は遠く離れた山口県の玖珂郡の町役場の窓ガラスが割れる程だった。
原爆投下場所近くにあった、はだしのゲンの主人公ゲンの通う小学校の舞台となった本川小学校では、1人の少女しか助からなかった。しかしながら、その助かった女性も昨年亡くなってしまった。
原爆で亡くなった女学生の遺髪
これが個人的に一番衝撃的だったのですが、被爆した中学生の爪と皮膚です。指先がはっきりわかります。被爆した中学生はあまりの喉の渇きに耐えられず、爪の間から出る膿をすすっていたそうだ。原爆投下の翌日死亡した。
黒焦げの弁当箱
これも有名な原爆で焦げた三輪車
これも有名な人影の石
銀行の開店を待っていた人が座っていたが、原爆の熱風により、溶けてしまい身元とがわからないらしい。人が座っていた所だけ、黒く影が残っている。しかし、年々影は薄くなっていっている。
実際に被爆した方々の写真
貞子さんが亡くなる直前まで折り続けた鶴
原爆投下当時に降った死の黒い雨
原爆によってもたらされたキノコ雲は広島に放射能汚染した雨を降らせた。
黒い爪
被爆した方の左手の中指と薬指の爪が変形し、伸び続けた
ケロイド
原爆の熱風は凄まじく、皮膚が火傷しケロイド状に変化した。実際に被爆した方々のケロイド状の皮膚。
そして、今年の8月6日まで限定公開されていた、オバマアメリカ大統領が折った鶴。綺麗な和紙で折られている。
平和の灯
平和の灯には焼香を炊こうと思ったが、長蛇の列が出来ていたので、断念した。
横には閣僚や県知事、市長の献花が添えられている。
この灯は世界から核兵器が無くなるまで消えることはない。
今回はこの像の下にある、平和の鐘を鳴らした。
灯籠流し
原爆の犠牲者を追悼する。神秘的な儀式。背景のライトアップされた原爆ドームが美しい。原爆ドームと灯籠の灯が水面に映り、幻想的だ。
原爆投下目標にされた相生橋。この橋はT字型で目標にしやすかった。この橋は路面電車も走っている。
81年前の秋、75年間は草木すら生えないと言われた広島に、新たな芽が生えた
そして、平成28年の今、広島は120万人の住む中国四国地方一の大都会へと復興している
広島の象徴とも言える路面電車は原爆投下の翌日には運行再開して、被爆した方々への生きる希望を生み出した。原爆投下直後は市民からは運賃を取らず、無償で奉仕し、負傷者の輸送を助けた。
取材したこの日、81年経った広島は35度を記録し、原爆投下された81年前と同じ様な暑さだった。81年前、丁度この空の上で人類最強の破壊兵器、そして、非人道的な兵器、原爆は炸裂したのだ。
因みに原爆投下点は現在のアニメイト広島横である。
原爆の投下の是非については、国によって評価が分かれている。原爆投下国アメリカでは、戦争終息への必要悪だったと教えられている。原爆投下軍人は英雄扱いされている。戦争は正義のぶつかり合いで、そういうものなのだ。
アメリカでは、原爆投下後の被害の映像は80年代まで機密扱いされ、知らされてこなかった。
NHKの特集によると、「戦争終息の為の必要悪」という大義が無いと、アメリカがナチス・ドイツを凌駕する、非人道的な行為を行ったと非難され、反米国家が増えることへの危機感が当時の米政府にあったらしい。こうして「戦争終息の為の必要悪」「多くの命を救うために」という、責任回避のための作られた大義は完成し、当時のアメリカの世論は歓迎した。
当時日本の敗戦と降伏は決定的で、原爆投下の必要性はなかった。しかしながら、原爆の威力実験をしたかった米軍は軍事施設があるという大義名分を掲げ、史上最大級の人体実験を行った。そうしないと、大金をかけた原爆開発の必要性を議会で激しく追及されるため、米軍としては落とさずには居られなかった。
当初は京都に落とすことを米軍が強く望んでいたが、それはトルーマン大統領の反対によりなされなかった。
1945年8月10日、事態を重く見たトルーマン大統領は原爆投下の中止を命令した。多くの女性や子供が犠牲になったことを後悔していたという。
大統領による中止命令が下されなければ、広島、長崎の他にも次々と日本に原爆を落とす予定だったらしい。
1945年8月、人類の上に投下された原子爆弾。広島と長崎では、その年だけで21万人以上の命が奪われた。アメリカで原爆投下は、当時のトルーマン大統領が「多くの命を救うために」決断したとされる。しかし、軍や政権の極秘資料から、実は明確な決断はなかった可能性が浮かび上がってきた。投下の意思決定は、誰がどのように行ったのか。今回、私たちは原爆開発の指揮官の肉声などを徹底検証、原爆投下71年目の真相に迫る。
ーーー以上、NHKスペシャル「決断なき原爆投下」より
これは昨年制作のイギリスBBC制作の映像だが、正義の原爆と教えられて来たアメリカの大学生が平和記念資料館を訪れた時の映像だ。
この映像で、被爆者の方が原爆の悲惨さを伝えに渡米しときの回想シーンが有るのだが、その時にアメリカ人に言われ、戦慄した言葉群がある。
「おめでとう。原爆のお陰でここに来ることが出来ましたね」
「原爆がなければあなたは切腹して自害しなければならなかったでしょう」
「あれがあったから、あなた達は命拾いしたのです。私達の国が原爆を落としたから」
国によっての戦争の解釈の違いは大きく、残酷なものだ。
現在、新たに水素爆弾という兵器が開発され、その威力は最大広島型原爆の約3300倍と云われている。その衝撃波は地球を3周するほどの威力だ。
平和に過ごしているため、日本では実感がないが、紛争や貧困、難民は溢れ、現在でも核保有国の脅し合いの中、核の傘のもとで束の間の平和を過ごしている状況だ。
今年に入ってから、真偽は不明だが北朝鮮がその水爆の開発に成功したとアナウンスした。
一刻も早く、核兵器なき世界が実現されるのが、望ましいが、中々難しいのが現状だ。
早く、本当に平和な世の中が訪れ、紛争、貧困、難民のない世界が訪れることを切に願う。
ここに掲載している写真は一部なので、より多くの写真を見たい方はこのアルバムを御覧ください。
安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから

ぼくは満員電車で原爆を浴びた: 11歳の少年が生きぬいたヒロシマ
- 作者: 米澤鐡志,由井りょう子
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2013/07/11
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