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日々徒然

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凶悪事件簿 file.1 「北九州監禁殺人事件」

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暴力的または猟奇的または残酷な描写注意


北九州監禁殺人事件 平成14年3月発覚

■概要
・子供を含めた家族間による殺し合い
(自らの手を汚さずに殺させている)
・監禁
・洗脳
・暴力
・虐待
・家族による死体処理(バラバラ解体)
・性的行為
・強姦

人の弱みにつけこんで監禁をして金を巻き上げ、拷問と虐待によってマインドコントロール下に置き、お互いの不満をぶちまけさせて相互不信を起こして逆らえなくし、被害者同士で虐待をさせることで相互不信を一層深くさせ、自分の手は汚さずに用済みとなった人間を殺害して死体処理を行わせた(裁判では6人の殺害と1人の傷害致死)。犯罪史上稀に見る凶悪犯罪とされ、第一審で検察側は「鬼畜の所業」と容疑者男女を厳しく非難した。
非常な残虐性・悪質性にもかかわらず、事件に報道規制がかけられたとされ、事件の知名度は高くない。当初は地元の報道機関を中心に報道をしていたが、内容があまりに残虐であるため途中から報道機関が自主規制し、全国の報道機関での集中報道には結びつかなかったともいわれる。

■人物
松永太 加害者X
1961年4月28日生。北九州市小倉北区出身。実家は畳屋。
7歳の時に父が実家の布団販売業を引き継ぐため柳川市に転居。小学校の全学年で殆どの科目でオール5であり、学級委員長や生徒会役員を務め、中1時には校内の弁論大会で3年生を差し置いて優勝し、中学では部活でキャプテンを務めた。
Yと同じ高校に進学し風紀委員長になるも、不純異性交遊が発覚して男子校に転校させられた。転校先の高校を卒業して父の店を受け継ぎ、布団販売業に転換するも、1992年に指名手配されるまで詐欺商法を繰り返す。1980年に結婚して一男もうけるが、1992年に離婚。その後に内妻Yと2男をもうける。
病的な嘘つきで自意識が強く目立ちたがり屋。饒舌でいくつもの顔を持ち、エリートを演じる傾向がある。礼儀正しく愛想が良いが、猜疑心・嫉妬心が強い(アフェクションレスキャラクターの傾向) 。異常なまでに執念深く嗜虐的。神経質で臆病な面もあるが虚勢を張る。
Xは「東大卒のコンピューター技師」「京大卒の予備校講師で小説家志望」「実家は村上水軍の当主」「兄は東大卒の医者」など様々な嘘の経歴を名乗っていた。
Xは容姿や話術から女性から好感を持たれる魅力があり、それにより様々な女性遍歴があった。元妻の証言によるとXはスナックを経営する母娘双方に入れ込んでいたという。また、この事件関係者である内妻のYの家庭についてはYだけでなくYの母DやYの妹Eとも同時並行で関係を持っており、Xは「奇妙な人間関係」と認めている。また、事件に登場する形でXと交際した女性は人妻ながら夫と何かしらの不和を抱えていた者が少なくない。
事件発覚後に元妻は「Xは自分を"世の中の救世主"と語っていたが、Xと出会った人は全員不幸になった」「Xによっていつか死人が出ると思ってた」「多くの嘘で上塗りをしていくと、Xの中では本当のことになる」という言葉を残している。
両親を含めた親族は取材を拒否している。なお、Xが経営していた会社の元従業員の証言では「Xは暴力団幹部と付き合いがあった。Xの実父からピストルを見せられたことがある」と証言している。

緒方純子 加害者Y
1962年2月25日生。久留米市出身。実家は農家。
従順で没個性的。殆ど叱られたことがなく、学校の制服や髪型を全て規則通りにする真面目な性格。高校時代は男性と交際はなかった。短大を出て幼稚園教諭になる。
Xの内妻となり、Xの子を妊娠した際にはXが堕胎を勧めるも、Yは1993年1月にXとの間に長男を、1996年3月にXとの間に次男をそれぞれを出産した。子供好きであったため、「どんなにひどい状況でも子供達に接している時だけ忘れられた」と語っていた。しかし、逆に子供たちの存在が、Y一家の家族を脅す材料としてXに利用されるようになった。
一連の事件解明における最重要証人の1人。
法廷では虐待の過程でXから喉を攻撃されたため、40代ながら老婆のような声になっていた。

被害者
A - XとYに虐待され、2002年に脱出した少女。1984年生。Xの支配下の間は小学生時代から酒を飲まされ、夜中の4時頃に寝て朝7時に起こされて登校した学校で居眠りをし、貧血を起こしたり吐き気を催したり、生理が3ヶ月遅れ、クラスで2番目の高さだった身長が殆ど伸びず前から2番目になり、1997年から2000年までの中学生3年間は約180日欠席するなど、学校に通いながらも身体を含めて生活に悪影響が出ていた。XとYの子2人を含めた4人の子の子守役をしていた。一連の事件解明における最重要証人の1人。19歳時の2004年に法廷で証言音声が流れたが、司法記者たちは「19歳にしては幼い気がした」と語っている。
被害者であるが死亡せずに生存した、報道機関や書籍では実名表記はされていない。

B - 元不動産会社勤務。Aの父。1961年生でXやYと同学年。1番目に死亡。
死亡した被害者であるが他の死亡者と異なり、報道機関では顔写真が非公開で実名表記が伏せられており、顔写真や実名表記は一部書籍のみとなっている。

緒方誉さん(当時61) C - 農協副理事長。Yの父。1936年生。久留米の集落一族の本家で、父方の祖父は村議会議員を務めるなど名家。兼業農業の傍ら、民間企業労組委員長を経て、農協の幹部になる。愛妻家。プライドが高く、心配性で世間体を気にするタイプの一方で、我慢強く、痛くても口や顔に出さない性格。2番目に死亡。

緒方静美さん(当時58) D - 主婦。Yの母。Cの3歳年下。久留米の農家出身。地元高校卒業後にCの家に嫁入り。良妻賢母だが、気丈な性格。XにYとの交際を話し合う際に肉体関係を結んで人生が暗転。Xによる支配下で夫の死体処理に関与。3番目に死亡。

緒方理恵子さん(当時33) E - 歯科衛生士。Yの妹。1965年1月生。同級生の友達と比較すると真面目ではあり親の前ではおとなしかったが、姉Yと比較すると親に隠れる場所では活発で遊び好きであった。また結婚前に妊娠中絶経験をし、結婚後も職場不倫をするなど複数の男性と肉体関係があった(このことが夫Fとの夫婦仲を悪化させて事件が早期露見せずに一層深刻化させる要因の一つとなった)。Xによる支配下における外出では主に買い物役を担当。母Dの絞殺において足を押さえる役で1人の殺害に関与し、2人の死体処理をした。4番目に死亡。

緒方主也さん(当時38) F - 農協系土地改良区事務所職員。Eの夫で、Yからみて義弟にあたる[3]。1959年4月生。久留米市出身。実家は農家で次男。地元の高校卒業後に千葉県警警察官になるも、父親の看病を機に退職して実家に戻ってAが勤務する農協の職員となり、婿養子という形で1986年にEと結婚。気がやさしく生真面目な性格。Xによる支配下における外出では主に車の運転手役を担当。義母Dと妻Eの2人を絞殺し、3人の死体処理をした。5番目に死亡。

緒方彩ちゃん(当時10) G - 小学生。EとFの長女。Yからみて姪にあたる。Yの家族と親しくなかったAは3歳年下の同性のGとは親しく、GLAYファンのAはSPEEDファンのGと流行歌について語り合った。弟Hを絞殺し、5人の死体処理に関与。7番目に死亡。

緒方勇貴君(当時5) H - 保育園児。EとFの長男でGの弟。Yからみて甥にあたる。Yの家族の中で唯一虐待を受けず、事件現場を直接目撃しなかった。6番目に死亡。


■事件
2002年3月6日、17歳の少女が小倉北区にあるマンションの一室から逃げ出し、祖父母宅へ助けを求めに駆け込んだ。
 少女は怯えながら、
「お父さんが殺された。私もずっと監禁されていた」
 と語った。少女の右足の親指は生爪が剥がれており、
「ペンチを渡されて、『自分で爪を剥げ』と言われたので剥がした」
 とのことであった。
 それまでの経緯などもあり、祖父は少女をともなって門司警察署へ監禁の被害届を出しに行くことになる。しかし彼女が供述した事実は監禁致傷にとどまらず、連続殺人――それも類を見ないほどの一家殲滅とも言える大量殺人であった。
 連絡を受けて現れた小倉北署員がこれ以後事情聴取を行なうことになり、そうして少しずつ、この事件の全貌が語られていくことになる。


 これら大量殺人の主犯である松永太は、1961年4月に小倉北区で生まれた。
 父親は畳屋であったが、松永が7つの時、実父(松永にしてみれば祖父)の布団販売業を継ぐため一家で福岡県柳川市へ引っ越した。松永の生い立ちについては特に語られるべきことがないのか、あまり情報がない。だが経済的に不自由はなく、母親と祖母にべたべたに甘やかされ、ほとんど叱られることのない幼少期を過ごしたようだ。
 高校2年の時、松永は家出少女を拾って自宅へ入れたことで退学となり、公立から私立の男子校へ転校。2年まで在学していた公立高校には、のちのち彼の『相棒』ともなる緒方純子も在籍していた。
 高校卒業後、松永は父親の営む布団販売業を手伝うかたわら、19歳で結婚し翌年には子供をもうけている。
 さらにこの年、布団販売業の有限会社を設立し、代表取締役としておさまった。だが、中身は粗悪品を訪問販売によって高値で売りつける詐欺まがいの会社であった。
 松永は契約のとれない社員に暴力をふるって虐待し、信販会社のセンター長に「接待」と称して昼間から酒を飲ませ、その姿を写真に撮って脅した。これにより信販契約の審査を甘くさせ、立替払金を着服するなどのメリットを狙ったのである。
 なお、のちの一家殺害事件にも使われた「通電リンチ」(電気コードの電線を金属のクリップに付け、腕などにテープで固定して通電する)は、この頃からすでに社員への虐待方法として使用されている。

 対する緒方純子は、1962年2月に久留米市に生まれた。
 兼業農家で土地をかなり所有していた緒方家は由緒もあり、地元の名士とも言うべき存在であったようだ。純子は村会議員の祖父や兼業で会社員の父のもと、何不自由なく育っている。
 そんな彼女のもとへ松永から連絡があったのは、短大を卒業し保育士となって半年ほど経った頃のことであった。
「俺、フトシちゃん。覚えてる?」
 と、高校時代ほとんど面識のなかった純子に、松永は最初から馴れ馴れしかったようである。だが目的は彼女の卒業アルバムだったらしく、松永は卒業写真を見て気に入った女性たちに電話をかけまくっていたという。
 そのかたわら、彼は純子に色気を出すのも忘れなかった。
 「会社の業績は順調で、しかも芸能界からのスカウト話も来ている」と松永は嘘を吹きまくった。そしてすぐに彼女と関係を持つに到る。
 しかし妻子ある男との交際は、じきに純子の実家にバレた。松永は緒方家を訪れ、
「妻子とは別れます。緒方家の婿養子になります」
 としおらしく宣言し、その場で『婚約確認書』なるものを提出した。
 俗に「口約束」と言うが、その反面どんないい加減な話でも書面にされた途端、人はなぜかそれに信憑性があるような気になってしまうようだ。そしてこの手の無意味な書面を作って嘘に説得力を持たせるのは、松永のもっとも得意とするところだった。
 松永は純子に「莫大な利益を上げている会社だが、お前の婿養子になって緒方家を継ぐからにはつぶさなくちゃいけない。芸能界の話も、残念だがお前のために諦める」と言って、彼女に自責の念を抱かせた。
 純子の母はこの『婚約確認書』なるものをあまり信用しなかったようだが、この会見によって父の誉(たかしげ)さんはすっかり松永が気に入ってしまったようであった。
 松永はこの時、わずか23歳である。その年齢にしてこの人心掌握の上手さ、口車の巧みさは珍しいと言えよう。
 彼のついた嘘は上記の通り、たわいないと言えるものばかりである。しかし彼の周囲の人物――特に緒方家の人々――はまるで糸に操られるようにして、いともたやすくその嘘に踊らされていった。
 この一種のカリスマ性、マインドコントロールのたくみさ、並びに良心の乏しさや残酷さはオウム真理教松本智津夫を髣髴とさせる。ただし松本を突き動かした、極貧と弱視ゆえのルサンチマンに匹敵するものは松永の半生には見られない。
 彼をそこまでにしたのは、むしろ真逆の
「保護者による甘やかしと絶対肯定による、エゴイズムの肥大・全能感」
 のように見受けられる。
 なお昨今の若年犯罪者に「おじいちゃん子、おばあちゃん子」が多いという事実も、これにまったく無関係とは言えないであろう。

 純子の母、静美さんはある日、松永に「純子と別れて下さい」と頼みに行った。
 しかし松永はこれを言いくるめたばかりか、静美さんを言葉たくみにラブホテルに誘い出し、関係を持ってしまう。当時静美さんは44歳であった。
 だがもちろん土地持ちの豪農である緒方家の娘・純子を松永が離すはずはない。松永は嫉妬妄想にかられたふりをして純子さんを殴打し、胸に煙草の火で「太」と焼印を押し、太ももにも安全ピンと墨汁を使って同じく「太」と入れ墨を入れた。さらに肉体的暴力だけでなく、家族や親族に無理やり嫌がらせの電話をかけさせるなどして孤立させ、精神的にも追い詰めていった。
 耐え切れず、純子はある日自殺未遂をはかった。しかしこれがまた松永の思うつぼであった。松永は純子に仕事を辞めさせ、両親に向かって
「婿養子などもらって緒方の家の犠牲になるのはいやです、縁を切ってくれないならまた自殺します」
 と宣言することを強要した。松永はその上で、
「今となっては純子はお荷物でしかないが、私もまさか放り出すわけにもいかない。彼女が自殺しないよう面倒をみていきます」
 と恩に着せた物言いをして、このときも例の如く緒方家側に『絶縁書』なる書面を作らせている。この騒動により、純子は緒方家から分籍。次女である理恵子さんが婿養子をもらうことになった。
 徹底的に虐げられ、親兄弟からも孤立させられた純子は、以降なすすべもなく松永の従順な手足となって生きていくことになる。


 1985年、銀行融資を受けて松永は布団販売会社を新築。この頃が(詐欺商法まがいだったとはいえ)彼のもっとも羽振りの良かった時期かもしれない。
 しかし酷使と虐待により、従業員は1人逃げ2人逃げ、2年後には従業員は純子を含め2人だけとなってしまう。その上、1992年には詐欺や恐喝などを重ねた末、経営が破綻して石川県へ夜逃げする羽目となった。
 収入がなくなった松永はたった1人残った従業員に、母親に金を無心することを強要。しかし約3ヶ月後、その送金も途絶え、虐待に耐えかねた従業員は逃走した。
 しかし松永がこの会社経営その他詐欺行為によって得た利益は、一億八千万にものぼるという。
 1993年、純子は第一子を出産。しかし相変わらず収入はなく、松永は結婚詐欺を思いついた。ターゲットにされたのは、松永がまだ羽振りが良かった頃交際していた女性だが、当時すでに結婚して子供(3つ子)もいた。
 松永は彼女を口説き落とし、
「離婚して俺のところへ来い、子供のことも俺が引き受ける」
 と言いくるめて、彼女に家出をさせた。そして北九州市小倉のマンションを、彼女名義で賃貸契約させている。純子のことは姉として紹介した。
 彼女は貯金のすべてを松永に吸い取られ、前夫からもらう月々の養育費まで奪い取られ、親にも金の無心をさせられるなどして、合計1000万円以上を搾り取られた。なお金蔓としての価値がなくなった頃、彼女と子供のうち一人は不審死をとげている。
 一連の事件発覚後、この死と松永との関連が浮かび上がったようだが、残念ながら事件性が立証されぬまま捜査は打ち切られたようである。

 1994年、松永は新たな金蔓を見つけた。
 今度は男で、不動産屋の営業をしていた虎谷久美雄さんである。彼は松永と同い年で、離婚して10歳の娘とともに暮らしていた。
 松永は「新会社を設立するから共同出資者にならないか」と持ちかけ、連日酒の席へ連れ出して、言葉たくみに些細な軽犯罪の過去等を聞き出した。計画がうまくいくまでの生活費は、純子に実家へ電話させ、泣き落としで送金させた。この金額も1997年まで63回に分けて、1500万以上にのぼったという。
 虎谷さんは松永に言われるがまま、新会社の事務所として小倉にあるマンションの一室を自分名義で賃貸契約する。
 そして純子が保育士をしていた経歴を大袈裟に吹聴して、10歳の娘を預かり同居させた。この少女が、のちに冒頭で警察に駆け込むことになる少女である。
 この時期から松永の虎谷さんへのマインドコントロールが始まった。
 虎谷さんが酒の席で口をすべらせた軽犯罪について問い詰め、お得意の書面(『事実関係証明書』と題され、私は~の犯罪を犯した事実を証明しますと書かされたもの)を作成した。松永のやり口は、内容は言いがかり同然でもとにかく執拗で、何度も何度も繰り返し相手の弱いところを長時間にわたって突いていくというものである。これをやられると被害者は次第に消耗して、自分の言い分さえ見失ってしまうのだった。
 これによって虎谷さんはやってもいない犯罪にまで『事実関係証明書』を作られ、それが弱みとなり、がんじがらめになっていった。
 虎谷さんは1995年2月、不動産会社を退社。いつの間にか新会社設立の話は消え、共同経営者どころか奴隷同然の身分になっていく。
 この頃から、虎谷さんへの「通電リンチ」が始まった。食事も制限され、一日中純子による監視がなされるようになった。虎谷さんは松永に命令されるがままに消費者金融から限度額いっぱいに金を借りては渡し、親族、知人など考えられる限りのツテから借金してはそれを渡した。
 しかしそれも1996年1月あたりまでであった。もう虎谷さんに金を作れるあては尽き、一目見てもわかるほどの栄養失調になっていた。松永は虎谷さんの殺害を決心するかたわら、新たな金蔓を探し当てる。次は女性で、また結婚詐欺であった。
 この女性も消費者金融、親族などすべての手段を使って金をぎりぎりまで搾り取られた上、「通電」を受け監禁された。だが彼女は命の危険を感じた末、アパートの二階から飛び降り、腰骨骨折や肺挫折を負いながらも何とか助かっている。
 しかし、虎谷さんは生き延びることはできなかった。
 虎谷さんが受けたリンチは凄惨なものである。
 食事は一日一回で、インスタントラーメンもしくは丼飯一杯。10分以内に食べ終わらないと通電を加えた。また、つらい姿勢や直立不動を長時間強要し、少しでも動けば通電。季節は真冬だったが、一切の暖房器具も寝具も与えず、ワイシャツ1枚で風呂場で寝かせていた。
 栄養失調のため嘔吐や下痢を繰り返すようになると、その吐瀉物や大便を食べることを強要した。その他にも裸にして冷水を浴びせる、殴打する、空き瓶で脛を長時間にわたって執拗に殴るなど、飽かず虐待を加えたという。もちろん「通電」はもっとも頻繁に行なわれた。
 2月20日頃になると、虎谷さんは腕を上げることもできなくなるほど衰弱した。この頃、松永は虎谷さんの実娘である少女に、歯型がつくほどきつく父親の体を噛ませている。
 2月26日、虎谷さん死亡。
 松永は少女に、
「お前がつけた歯型のことがあるから、お父さんを病院へ連れていけなかった。病院へ連れていったらお前が殺したことがすぐにわかって警察に捕まってしまうからな」
 と言い聞かせ、まだ小学校5年生の少女に『事実関係証明書』を書かせた。内容は「私は、殺意をもって実父を殺したことを証明します」というもので、長い間少女はこの書面に縛り付けられることとなる。
 松永は死体の処理を、純子と少女に一任した。二人は包丁、のこぎり、ミキサーなどを使って死体をバラバラにし、鍋で煮込んだ上、塊は海へ、肉汁は公衆便所へ廃棄するなどして処理した。
 なおこの死体解体の直後、純子は第二子を出産している。



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またも金蔓を失った松永は、今度は純子に金を工面することを命じる。
 純子は実家に連絡し泣きついて送金してもらうものの、額が大きくなってきたこともあり、心苦しさに出稼ぎを決心した。
 1997年4月、純子は1歳になった次男を久留米市の伯母へ預け、湯布院でホステスとして働き始めた。長男はマンションに置いたままで、世話は虎谷さんの娘にみさせていたようである。
 しかし純子はいつになっても帰ってこなかった。
 殺人の共犯者でもあり奴隷でもあった純子に逃げられた松永は、取り戻すべく一計を案じて純子の母・静美に連絡をとった。松永と静美さんの肉体関係はまだ続いており、彼は以前より「純子のせいで殺人や詐欺の片棒をかつがされた」と静美さんに吹き込んでいた。
 そのため、緒方家の世間体を案じた父・誉さん、静美さん、並びに妹の理恵子さんが話し合いのため松永のマンションへ出向くことになった。
 これは大きな間違いであったが、松永の口車に乗せられ、純子を殺人の正犯だと思い込んだ緒方家の人々は唯々諾々とこれに従うしかなかったのである。
 面と向かってしまえば、マインドコントロールは松永の真骨頂とも言うべきところである。
 明け方まで寝かせず同じことを何度も何度も執拗に繰り返す、相手の一番弱い所(名家の緒方家にとって、これは世間体だった)を突く、自尊心をくすぐって持ち上げては落とすことを繰り返すなど、一連の手口はもう手馴れたものだった。
「緒方家から殺人犯を出してもいいのですか、マスコミの餌食にされますよ、家の名誉を何だと思っているのですか」
 と松永は彼らを逆に責め、
「私が死んだということにして葬式を出しましょう。そうすれば純子は帰ってくるだろうから芝居に協力して下さい」
 と言いくるめた。
 そしてこの芝居にひっかかり、純子は小倉に帰ってくることになる。帰ってきた途端、それまで押入れに隠れていた松永に取り押さえられて殴られ、彼女は家族の前で通電リンチを受けた。純子にとってはこの時、騙されたことよりも、家族が松永の味方をしたばかりか彼の膝下に置かれてしまったことの方がショックだったという。
 松永は純子に命じて、湯布院で世話になっていた人々に電話をかけさせ、罵倒させて絆を断たせた。味方と逃げ場を失くすためである。もう逆らう気力もなく純子はこれに従い、見ず知らずの自分に親切にしてくれたスナック経営者や紹介者に
「あんな安い給料でこき使いやがって、バカにしてるのか」
「親切ヅラして私をスナックへ売り飛ばしただろう」
 と松永に命じられるがままに悪態をついた。
 松永はその後、純子がマンションで死体をバラバラにしたことを緒方家の3人に告げ、「家の名誉のため、証拠を隠滅しなくては」と言って配管工事をさせている。これによって彼らに共犯者の負い目を感じさせることが目的だった。
 その上で彼は緒方家の人々に
「純子は詐欺、殺人などで指名手配となっています。なんとか私が彼女の面倒をみながら逃げ切ってみせますから、さしあたり5年分の逃走資金を調達して下さい」
 と言った。この5年分の逃走資金として呈示した額は、3000万円である。緒方家の人々はそんな金はないと言ったが、松永は土地を担保に借りろと強要。しかし土地の名義は、祖父のものになっていた。

 1997年6月、妻の理恵子さんが毎晩外出していることに気を揉んだ主也さん(緒方家の婿養子)は、彼女を問い詰めた。理恵子さんは渋々、姉の純子が犯罪者であることを打ち明けた。
 元警官である主也さんはそれを聞き、「松永が義姉をたぶらかしたに違いない」として、次回は自分も同行すると言い出した。
 しかしこれもやはり、取り返しのつかない誤りであった。
 松永は一目で主也さんの性格を見抜いた。公務と農協しか社会経験のない純朴さ、婿養子であることのわずかな心の引け目、隠された男のプライド。松永は彼に酒を飲ませ、
「あなたが跡取りなのに未だに土地の名義は先々代さんらしいじゃないですか。バカにされてるんですよ」
「緒方家の中じゃあなた、単なる種馬扱いだと言うじゃありませんか、人をなめるのもいい加減にしろという感じですねえ」
「理恵子さんは意外に男癖が悪いそうで。静美さんといい緒方家の女性は発展家の血筋のようですな」
 とさんざん吹き込んだ。静美の相手とはもちろん松永本人のことなのだが、これは実際地元でも相当噂になっていたらしい。そして理恵子さんとも、松永はもう関係を持っていた。
 赤子の手をひねるように松永に乗せられてしまった主也さんは、
「あなたがお人よしなのをいいことに、こんなにコケにされ続けて腹がおさまらないでしょう。あんな人たちは殴ってやったってバチは当たりませんよ」
 との松永の言葉のままに、緒方家の人々を順繰りに殴ったという。もちろん酔いが醒めてしまえばただちに後悔し、自己嫌悪することになるのだが。
 こうしてやすやすと松永のかけた罠に捕らえられた主也さんは、二人の子供までも松永に預けてしまうことになる。そしてこの直後あたりから、松永の緒方家一同への「通電リンチ」も始まった。
 供述によると、静美さんと理恵子さん母子を並べて仰向けに寝かせ、同時に性器へ通電するというリンチまで行なっていたそうである。
 母と娘2人を犯し、その関係をそれぞれの夫の面前で吹聴し、なおその性器へ電流を流す。松永は彼らの上に絶対的に君臨し、それを誇っていた。まさにローマ皇帝並みの暴君ぶりだったと言えよう。
 8月、緒方家は誉さん名義で、農協から3000万を借り入れた。担保はもちろん祖父名義の土地である。
 主也さんはこの借入書の保証人になっているが、その前に松永に「これ以上、緒方家の奴隷になっていることはない」と唆され、住民票の住所を変えていた。それを忘れてもとの住所のまま書類を作成してしまったことを松永は「文書偽造だ」と責め、それを何度も何度も明け方まで眠らせずに繰り返す得意の手口で、彼を追い詰めていった。
 発端は些細な、くだらないことでかまわないのだ。とにかく責める糸口さえあればいい。あとは思考能力を奪ってしまう一手だった。
 睡眠不足と心労により、主也さんは9月以降、職場へ出勤できなくなった。そして主也さんへの通電も、ほぼ同時期に始まっている。
 彼らは自由に外出することも禁じられ、完全に松永へ精神的に隷属した。彼の促すままに農協から金を借りては渡し、まだ残っている水田を売却すべく手続きに奔走した。
 その一方、松永は例の「書面作成」の腕前を発揮し、彼らに
「我々が失踪したのは土地の売却を親族に邪魔されたせいである」
「私(主也)は妻の首を絞めて殺害をもくろんだ事実を認める(※松永みずからが理恵子さんとの肉体関係を暴露し、彼の嫉妬心を煽った果ての行為である)」
 など何通もの書類を作らせては署名させた。精神的に支配されきっていた緒方家の人々は、これに法的拘束力があるとたやすく信じた。
 しかし祖父や親族が簡単に土地の売却にうんと言うはずはない。
 親族に強硬につっぱねられ、警察が動き始めたことも知らされた松永は、緒方家はもう金にならないと判断した。なおそれまでに彼が緒方家から搾り取った金は、6300万円にのぼるという。

 1997年12月、松永は言いがかりをつけて緒方家の大人たちを並べて正座させ、その場で純子に命じて父・誉さんを通電によって殺させた。死体は残された緒方家の面々が処理せざるを得ない。虎谷さんの死体と同様の手段で、解体し海に捨てたという。
 翌年1月、通電と心理的負担によって精神に異常をきたした静美さんが殺害される。もちろん松永が手を下すことはない。しつこく何度も殺害をほのめかされ、追い込まれた被害者たちの中から主也さんが暗に指名されて絞殺させられたのである。遺体は同じく解体されて処理された。
 2月、度重なる通電によって難聴になっていた理恵子さんを「頭がおかしくなった、邪魔だ」と言い、夫である主也さんに絞殺させる。
 4月、主也さんを虎谷さんの時と同じく、浴室へ監禁し食パンだけを与え、1ヶ月半かけて栄養失調で死亡させる。
 5月、理恵子と主也の子供2人(姉弟)を絞殺。弟を絞殺する際は、わずか10歳の姉に手伝わせたという。
 松永はこうして緒方一家を皆殺しにしてしまったのちも、純子に向かって
「お前が由布院へ逃げたせいで、全員を殺す羽目になった」
 と、この期に及んでさえすべてを彼女のせいにするのを忘れなかった。



 しかし2002年に少女が逃げ出し、警察へ駆け込んだことで一連の事件はようやく明るみに出ることになる。
 祖父母宅へ少女を連れ戻しにやってきた松永と純子を、張り込んでいた捜査員が緊急逮捕。また、少女が長らく世話をしていた四人の子供が児童相談所に保護される。このうち2人は松永と純子の実子であり、残る2人は、母親から養育費を巻き上げるため松永が言葉たくみに預かっていたものであった。

 2005年3月、福岡地裁において検察は松永、純子の両名に死刑を求刑。
 同年9月、死刑判決。
 公判中も一貫して、己の「全能感」をどこでも押し通せると信じ、滑稽なほどたわいない嘘をつき続けた松永は、ただちに控訴した。


wikipediaによるさらに詳細】

■XとYの交際 & Y虐待事件

・XとYの交際
1980年夏にXが転校前の高校卒業アルバムを入手して同級生のYに電話。YはXとは異なるクラスであり言葉を交わしたこともなかったが、文化祭で注目されていたことを思い出し、会うことになった。
YはXと2回目に会った時に「結婚を考えている相手がいる」と打ち明けられる。これはYの心を揺さぶるXの狙いがあったとされるが、恋愛感情の無いYはXの話を淡々と対応した。車で帰る際にXは車を停めて助手席のYに強引にキスをしようとした。この時はYが拒絶した。二人が3回目に会った時に、Xは男性交際に慣れていないYを強引に誘ってラブホテルで肉体関係を結び、YとXの交際が始まる。
1984年夏にYは叔母に子持ちの妻帯者Xとの交際を打ち明けたことがきっかけで、Yの親であるCとDの耳に入り、CとDはXが妻帯者でYとXの交際が不倫関係になっているためにXと別れるようにYに求めた。またXがCの資産状況だけでなく、Dの実家の資産状況をも調べており、そのことを知ったDは私立探偵にXの調査を依頼していた。しかし、1984年8月にXがYの親C・Dに会った際に礼儀正しく好青年らしく振る舞ったり、妻と離婚してYと再婚して婿養子入りすることを約束する「事実確認書」を作成したことで、CはXを気に入るようになり、DもXに対する姿勢を軟化させた。
YはXとの肉体関係について「"いずれ養子を迎えて家を継がなければならない"と自覚しているため、Xとは結婚できる相手ではない不倫関係であるため、"恋愛におぼれてはいけない"と自制していた。でも親が養子縁組した相手と結婚するまでに、"1度くらいは恋愛経験をしてみたい"という気持ちがあった」「Xから妻との離婚について計画を聞かされる一方で自分にプロポーズしてきたため、"不倫だから申し訳ない、結婚を望むのはいけない"という気持ちが無くなる一方でXに対する恋愛感情がだんだん大きくなり、自制心が薄らいでいった」と述べている。

・Y虐待事件
XはYに当初はやさしく対応していたが、Yが昔交際していた男友達の話をしたのをきっかけに暴力をふるうようになり、Yに古い日記帳を持ってくるように命じ、事細かに詰問しながら殴打するようになった。Xに信用してもらえる方法を懇願したYに対し、Xは右乳房へのタバコの痕、右太股の刺青にそれぞれ自分の名前を刻ませた。また、YはXの指示であらかじめ用意していた文章を読み上げる形でYの知人男性たちを罵倒し、関係を絶たせた。
1985年2月にXから暴力を受けていたYは勤務先の幼稚園で心労と睡眠不足による過労で倒れ、数日後の2月13日に実家で自殺未遂事件を起こす。この際にYの親は救急車をサイレンを鳴らさないように求めるなど世間体を気にしていた。
XはYを2月15日に退院させてCの家に戻さずに自分のアパートに連れ帰り、「自殺されたら原因を探られ、自分も警察に呼ばれて迷惑だ」としてYに対する暴力をさらに加速させる、Xは自殺未遂だけでなく、不倫関係が妻に発覚したら損害賠償を請求されると脅したり、Yの裸写真をカメラ撮影した。さらにXはYを幼稚園教諭を辞めさせて自分の会社で働かせる一方で、Yを実家との関係を絶つために分籍させた。

■XとDとの男女関係
Xの証言によると、1984年秋にYの母Dから「Yと別れて欲しい」と持ちかけられたという。DとしてはXが妻と離婚してYと再婚して自分の家に婿養子入りすることを約束する「事実確認書」があるとしても、Xの法律婚は継続していたため、Xを完全に信用していなかったと思われる。
Xの証言によると、XはDに人目のない所で話がしたいと持ちかけ、Dを郊外のラブホテルに連れ込んで肉体関係を結び、その後は会うごとに肉体関係を結んだという。一方で母Dが「Yを心配しておらず、Xに会いたがっている」とXから聞かされたYはDに嫌悪感を抱き、日記に「同じ血が流れているのが嫌になる」と書いている。Dのこの対応で、結果としてXが1992年までの数年間法律婚を継続したまま娘Yと母Dと同時並行的に男女交際が継続となったために問題は一層複雑化し、娘Yと母Dに緊張関係を生じさせる素地を形成した。またXとDの関係は地元では噂になっていた。
なおYは事件による逮捕後の法廷証言ではXと母Dの男女関係のきっかけについて「同意による関係でなく、強姦という形で関係を持った」と推測し、母Dについて「私がXと男女関係をもったために、母DはXと男女関係になり虐待されて殺害されるという形で事件に巻き込んでしまった。もし、母がXと男女関係を続ける中で女として悦びを感じる瞬間があったとしても、私は母を恨んだり憎んだりしません」と擁護した。XはDとの肉体関係についてはDが積極的に誘ってきたのがきっかけと主張しているが、検察がYが主張する強姦説を取っている。
XとDの関係について、マスコミには「想像できないような大変センセーショナルな内容」「ミイラ取りがミイラになる男女の仲」「Xは愛人Yの母Dとも20年来の愛人であった」「母DはXがこしらえた舞台で右往左往する大役を演じた」と表現された。


■妹EとFの結婚
CとDは長女Yの結婚相手を跡取りにするつもりだったが、1985年に長女Yが分籍して家を出たために、専門学校を卒業してEは歯科衛生士になっていた次女Eに見合いを勧める。
1986年7月にEは農協職員Fと結婚し、結婚式では約200人が集まって盛大に行われた。Eは見合いを勧められた当時別に付き合っていた男性がいたが、親が勧める見合い結婚を断る余地はなく、家庭の縛りから逃げられない境遇に涙した。結婚式でEは花嫁として「白無垢」「色打ちかけ」とお色直しをしていたが、3番目は古式ゆかしい衣装である「黒留め袖」であり、Eの友人は前夜まで泣いていたEを思い出しながら「家のしきたりから自由になれない」と感じて涙したという。
FはC・Dと養子縁組して婿入りする形でEと夫婦になり両親C・Dと共に同居する。1987年に長女G、1992年に長男Hが誕生。子煩悩だったE・F夫婦の家庭は外面的には順調であり、Eの友人はEの家族は「仲のいい家族」と見ていた。
一方で結婚式の前にYはXの指示により、自分の実家に「Fの実家に財産をやるのか!」「家をめちゃくちゃにしてやる!」、Fの実家や仲人の親戚に「財産目当ての結婚だ!」等度々嫌がらせ電話をかけた。嫌がらせ電話とYが家から勘当を受けているということもあり、Yは妹Eの結婚式に出席しなかった。Fにとって妻Eとの結婚前に家を出ていた義姉Yとは後述の1997年まで面識はなく、義姉Yを「問題を起こす義姉」「一家の厄病神」と見ていた。

■Xの結婚と離婚
話は前後するが、Xは高校時代にバス停で出会った年上の社会人女性と3年間交際。1982年に布団販売業を経営していたXは交際相手の女性にプロポーズをして19歳で結婚。
一方でXは他の複数の女性と浮気をして結婚後も不倫を重ねたが、妻はこのことを知っていた。妻は最初の頃は止めて欲しいとXに言っていたが、次第に感覚が麻痺して辛いと思わなくなった。1982年12月24日にはXが入れ込んでいた音楽好きの女性に「バンドをやっている」と口説き、嘘を本当にするために楽器や音響機器を揃えて従業員に1ヶ月特訓をさせ、1100人収容の久留米の大ホールに50人ほどの客の前でバンドの演奏に乗ってXはボーカルを担当し、音楽好きの女性に向けて「最高のイブ!」と声をかけた。この時、ホールの客にはXの子を妊娠していた妻だけでなく、Xと数ヶ月前に肉体関係を結んだ愛人Yがおり、他にも愛人がいたとされる。妻はYとは初対面ではなく、小学生時代に学校で一緒に遊ぶ等の交遊関係があった。後にYがXの事務所に寝泊りするXの愛人と知るようになる。
1983年に長男が誕生したが、恋人時代から続いていたXの暴力は止まらないために妻は逃げ出すことも考えた。しかし、Xに取られたくない子供を連れて逃げるのは難しいと躊躇した。
Yは愛人としてXが経営する事務所で寝泊りをするようになり、妻はYと共にXから度々暴行を受ける。Xに暴行をされた際には妻は大声でわめいたが、Yは声をあげずに耐えており、妻は「Yが暴行に声を上げずに耐える」のを不思議がった。また、妻と子の前でXがYを暴行した際、マヨネーズを台所の床に落として舐めることを命じた事に、妻は「子供の前では止めて!」と叫んだが、Yは抵抗する素振りを見せずに床に落ちたマヨネーズを舐め続けた。このようにYと妻は同じように暴行を受けても、Yは妻よりもXに従属的だった。
Xが暴行して入院したYを不審に思った担当医が警察に通報し、警察がXの事務所に来て任意同行を求められる。妻はXの逮捕を確信し「殺人事件とかになる前で本当によかった」とXからの暴力解放を喜んだ。しかし、数時間後にXは逮捕されずに戻ってきた。
Xの義父(妻の父)はXの性格を疑って結婚後も信用しなかったので、Xは義父(妻の父)の前では粗暴な対応を見せなかったが、義父(妻の父)の死亡後にXが実家でも平然と暴力を振るったことがきっかけとなり、妻は長男を連れてXから逃げて警察署に駆け込んでDVの被害申請をし、紹介された相談所で仮住まいをした。Xは居所を突き止めようとしたが、市役所が住民票を移さないまま長男の転校等を特別に許可するなどの対応をとったために難を逃れ、2ヶ月後にXとの離婚が成立した。
事件発覚後に元妻は「もしあの時逃げなければ、私がYのように家族を殺していたかもしれない」という言葉を残している。

■詐欺事件・脅迫事件
Xは二束三文の布団を高値で販売するために、暴力や「ヤクザ」という言葉を挙げて客を脅して無理やり布団を買わせるなどの詐欺的商法をしていた。1987年5月には会社を改名し、会社の営業項目は「貿易業、船舶、石油、航空機、鉄、自動車、海運」と大商社さながらであった。
Yは幼稚園退職後はXの会社で働くようになり、Xの仕事において他人に対し「うちの会社をつぶす気か!」「借金返せ!」「どういうつもりなの!」と怒声を浴びせるようになった。
Xの妻が去ったことで愛人から内妻という立場になった。
Xはこの商売で1億8000万円を荒稼ぎしていた。しかし、この詐欺的商法が警察の知るところとなり、1992年7月に詐欺罪と脅迫罪で警察に指名手配され、XとYは最後まで残っていた男性社員と3人で逃亡する。Xの会社は9000万円の債務を踏み倒す形で倒産した。
XとYは一時的に石川県に逃亡していた。金の工面をしていた男性社員は虐待に耐えかねてXから逃走した。この男性社員への虐待は刑事事件になっていない。
詐欺事件と脅迫事件の指名手配は1999年7月に公訴時効が成立した。

■父娘二人監禁事件
XとYはXの出身地で土地勘のある北九州市内に戻り、Xの知人である不動産会社勤務のBに接近。XがBが勤務する不動産会社を通じて潜伏アジトとして複数のマンションを確保した。これらのマンションはBの姉(Aの伯母でもある)が契約者、A自身が連帯保証人になって契約したものである。Bの姉(Aの伯母でもある)は予備校講師を偽っていたXから夫の不和の相談に乗ったことがきっかけとなって夫と離婚し、Xが数多くいる交際相手の1人になっていた。仲介者であるA自身が当該不動産の保証人となる行為は宅建業法に違反する行為であった。なお、この時にXが確保したマンションの1つが後に数々の殺害現場の舞台となった。
当時、Bは交際相手である保険外交員の女性と同棲していたが、Xから競馬のノミ屋に関する儲け話に関する新会社設立を聞かされたBは同棲していた女性と別れ、Bの実娘Aと共にXが潜伏する北九州市内のマンションに引っ越すことになった。
Xは、酒の席で酔っ払ったBから部屋の消毒作業をしないまま消毒済みとして消毒費を着服していた過去を聞き出し、犯罪だとして追及して虐待をするようになる。そして、Xは消毒費着服と虐待で、Bに「娘Aに性的虐待をしたこと」「会社の金を横領した」という事実と異なる事実確認書を書かせ、その事実確認書を盾に弱みつけこみさらに虐待を加速した。この虐待においてYはXが見ていない時もBへの虐待に手を抜かなかった。Aは事件発覚後の法廷証言でXだけでなくYも「悪魔」と表現したが(後述)、その理由はこの時のYの対応が影響している。
1996年2月、XとYは通電を繰り返したり、食事を満足に与えないなどBを虐待して衰弱死させた(第1の殺人)。Xは、YとAに遺体の解体を命じ、Bの遺体は海に投じられた。
XはAに対し死亡直前のBに歯型がつく程噛ませた後に写真を撮り、Bの殺害に加担した罪悪感を植え付けて虐待を繰り返し、監視下に置いた。

■母娘不審死事件
指名手配で逃亡中にXの同窓生だった女性は夫を持つ身であったがXから結婚を持ちかけられたことで夫と離婚した。その後にXは結婚を餌に金を要求し、女性は別れた夫から次女の養育費名目や実家に再婚費用の名目で金を無心、計1880万円の金がXに流れた。
1994年3月に女性(当時32歳)は大分県別府湾に飛び込み自殺(他殺説あり)。
また1993年9月に女性の次女(当時1歳)は頭部強打という形で急性硬膜血腫で死亡。その際に、指名手配中のYが当時存命中だった母親を名乗って病院に付き添い「椅子から転がり落ちて頭を打った」と病院に説明した。
この事件で、Xらの犯罪が疑われたが、嫌疑不十分のため刑事事件となっていない。

■女性監禁事件
XがAを介して知り合ったAの友人の元妻である女性(当時36歳)に言葉巧みに近づいて結婚を約束。この女性には3人の子供がいたが、長女は前夫に親権を渡し、長女は受験勉強の塾通いのために実家に預け、次女(当時3歳)を連れてこさせて、XやYと同居を始めた。
1996年12月30日から1997年3月16日にかけ、XとYは女性と次女を北九州市のアパート二階の四畳半和室に閉じこめ、連日虐待した。またXの命令で女性が次女に虐待していた。
3月16日未明、女性は隙を見て部屋の窓から路上に飛び降り脱出した。
女性の逃亡後、Xらは同居していたアパートをすぐに引き払って姿をくらました。家に残った次女の世話に困ったXは、女性の前夫宅の玄関前に置き去りにした。
女性はその後、精神科に長期入院した。

■Y逃亡未遂事件
湯布院事件
B殺害前後からXの指示でYは母Dに金の無心をしていたが、Yは次男を母Dの実家に預けて1997年4月に大分県湯布院町でスナックホステスとして働くが、YがXの元に帰って来なくなった。XはYがBを殺したことを口実に、身内に殺人犯がいることを露見すると世間体が悪くなることを盾にY親C・DとY妹EをXが住むマンションに巧みに呼び寄せた。また、XはYを自分の下に置くために、Yと度々会っていたC一家3人など通じてX自身の自殺・葬儀を捏造することでYを呼び戻す。
偽葬儀で打ちひしがれているYの前にXが現れ、YはXの指示によって自分の家族によって抑えられた。Yにはこの直後の記憶が無くなっている。こうしてYは再びXの支配下におかれ、Xは今まで以上の虐待をYに行った。
そして、Xは自分の目の前でYに大分県湯布院町の勤め先の雇い主に「給料が安すぎる! もっと寄こせ! これから取りに行く」、雇い主の娘が看護師として勤務する病院に「あの娘は薬を横流ししている!」とそれぞれ作り話を罵詈雑言の浴びせる電話をかけさせ、関係を絶たせた。

門司駅事件
1997年5月中旬にXが下関市在住と偽って交際していた女性へ下関市の消印の手紙を出すために、少女Aを監視役にYは下関市に向かった。この時のYの服装はXから借りた男物のカッターシャツとジャージ、男物のスリッパであった。
帰りの列車で門司駅に着いた際にYはXとAに迷惑をかけないために自殺することを考えて富士山の樹海に行こうと考え、発車を告げるベルが鳴ってドアが閉まろうとした瞬間に、ホームに飛び降りて走った。しかし、監視役のAも素早く反応して列車から降りてYを追いかけた。Yは改札口を出て駅前に停車していたタクシーに乗り込んだが、AがYに乗り込んだタクシーに追いつき窓を叩き大声で叫び声を上げたため、Aの周りに人が群がり「警察を呼べ」という声が聞こえたために、Yは逃亡を断念した。
Aは携帯電話でXに連絡を取り、Yの逃走未遂を告げて指示を仰ぐと、Xから門司駅のホームで待つよう指示される。Yは再び走り出して発車直前の列車に乗り込んだ。しかし、またもAがYが乗り込んだ列車に乗り込み、携帯電話でXに連絡。電車が小倉駅に到着した際にホームにXが待っていたため、Yは逃亡を観念した。
マンションに戻らされたYに対し、Xから今まで以上の虐待が行われた。

■Y一家監禁事件
Yの問題でC・D・Eの呼び寄せ
1997年4月にXは湯布院事件で一家C・D・Eをマンションに呼び寄せたのをきっかけに、久留米に住むC・D・Eを夜に頻繁に小倉まで呼び寄せ、Yの問題で逃亡資金等を名目に金を要求。金が用意できなくなると、XはC一家に対して通電などの虐待を行うようになり、無理やりでも金を用意させるように追い詰めさせて金を巻き上げた。さらにCにB殺害現場の配管を交換させ、証拠隠滅に加担させた負い目を負わせた。

XとEの男女関係
Xの証言によると、1997年4月からXとEは肉体関係を結んだ。XはDとの関係についてこれが初めてではなく、高3時に花火大会でE(当時14歳)をひっかけてホテルで肉体関係を持っていた。なお、Yと交際を始めたばかりの頃は、高3時に肉体関係を結んだ相手がYの妹であることを知らなかった。Xの証言によると、1997年時はDが積極的に誘ってきたと主張している。
1998年当時のXはYに対しては「俺はふくよかな女性が好きだから、Eから誘われたけど断り、関係を持たなかった」とEとの男女関係を否定していた。だが、YはXへの長年の観察からXはごまかすために自分が口火を切って話し始める癖から、Yは当時から妹EはXと肉体関係があったと判断していた。
またD死亡後に関するYの証言によると、Xは家族を別々のマンションに分けて住まわせた際にEと自分を一緒にしたことについて「当時、妹Eは買い物役をさせられていたが、それ以外は推測ですので、申し上げなくてもいいと思う」と言葉を濁したが、EとFを別々のマンションに分けて住まわせたことについて「Eは虐待以外の時はGと一緒に浴室に閉じ込め、XがEをFから引き離して寵愛したわけではない」としている。
また妹Eの死亡前の時期に、義弟Fと不仲になる頃に妹Eの生理が止まったが、それについてXが「急に痩せたりする体調変化で生理が止まったんだろう」と自分を納得させるかのように話し出していたことから、当時はわからなかったが逮捕後に法廷に立った時点ではEはXの子を妊娠したと推測するようになった。またYは、Eの妊娠発覚は自分や義弟Fが反感を買ってXによる一家支配の困難化になるとし、XがEの生理が止まっている中で陰部への通電が行ったのは自分の子を流産させるため、XのE殺害は妊娠発覚を防ぐため、とそれぞれ推測している。
Xの証言によると、「Fから自分とEの男女関係を問いただされたことはない」とEの関係について明白な問答をFとしなかったことを示唆した上で、「Fは自分とEの男女関係を察知していたと思う」と推測している。

Y義弟Fの取り込み&姪G・甥Hの人質化
妻Eとのその両親C・Dが毎晩のように外出して明け方に帰ってくるのを不審に思っていたFは、Eと共に小倉のマンションに向かう。
XはFがYと血のつながりがないことや元警察官という経歴から、YやCに対しては「Fは信用できない」と警戒していた。しかし、Xは実際にFに会った際に他の家族とは別格に扱い、婿養子で立場の弱いFをことさら持ち上げた。
XはC・D・EをYの問題を酒の席を設け、睡眠不足と酒による思考力が低下してたC・D・Eから様々な秘密を聞き出し、それをFに聞かせた。
XはEは妊娠中絶があり結婚後も職場で不倫していたことなど酒の席で聞き出し、「子供さんはG、Hの順番だけど、もう1人いたんですよね? 結婚前のことをEに聞いてみては?」などをFに話した。Eの妊娠中絶や職場の不倫はXが聞き出すまでは「Eと深いことも相談しあう仲だった親友1人」しか知らなかった。Eはこのことに相当ショックを受けた。
さらにXはCがFの婿養子入りする際の土地名義変更が未だに不履行であることを挙げて「一家ではFは種馬扱いで嫡男Hが生まれて血筋が絶やさなければ用なし扱いなんですよ。土地の名義も祖父のままで、あなたは騙されて養子に来たんだ。」とFをそそのかした。XからプライドをくすぐられたFはXを「よき理解者」として気を許すようになり、「義母Dは食おかずを作り過ぎ・手伝えとばかりにレタスを広げる」とC一家に不満をぶつけた。さらにXはFをそそのかして「(多数の男性交際があるEや自分と交際しているD等)この一家の女性は発展家なんですか? この一家は立派なんかじゃなく、世間体ばかりで中身は腐った家族なんですよ! こんなに騙されて馬鹿ですね! 殴るのが当然だし、殴ったって構わないですよ!」とFに義父C・義母D・妻Eを殴らせたが、Xが「強くしないんですか?」と言うと、Fはさらに3人を強く殴った。これによりC・D・Eの3人がFに憎悪するよう仕向けた。
一方で、Eから「Fが自宅寝室にダブルベットを置いて部屋のスペースを狭くした」「早朝にFからセックスを求められた」とする愚痴が出ると、XはEの立場になって「女性を侮蔑している!」とFを責め立てた。Fのセックス問題について、Yは法廷で「Eは毎晩久留米から小倉に来ているため、朝になるのは仕方ないと思う」とFを擁護している。
これらによってEとFは夫婦仲が悪化し、Xが仲裁して「離婚に関する協議内容合意覚書念書」を作成した。
FはXから聞かされた妻Eの妊娠中絶や不倫の話についてEを小倉のビジネスホテルで問いただして認めると逆上して首を絞める等で暴行したとして、Xによって事実確認書が作成された。さらに義父Cが農協から借用書に連帯保証人として関与する際に8月に「いつまで妻の家の奴隷でいるのですか」とFにそそのかしてFは住民票と妻と子供2人と共に自分の実家に移していたが借用書では元の住所で正確な借用書ではなかったことから借用書の文書偽造罪として追求。さらにXはFにB殺害現場の浴室タイルを張り替えさせて殺人事件の証拠隠滅罪として追求した。Xは前述のFの行為を犯罪行為として度々蒸し返し、「元警察官たるものが!」という枕詞にFを罵倒して罪悪感を負わせて心理的に追い詰めた。これによりFがC一家を率いてXに抵抗する事態はありえなくなった。
さらに、Fは「子供たちを残して北九州に来るのは心配で中々こられない」とXに漏らしたのをきっかけに、XはEとFの子供である娘Gと息子Hを連れてくるよう説得し、8月の小倉の夏祭りをきっかけにGとHは小倉のXのマンションに呼び寄せられたが、それ以降GとHを帰さず人質化した。

Y一家6人を支配下
Yの問題を名目にC一家の奇妙な北九州通いは続き、その過程でYやAに通電という虐待行為を行っていることを知り、約束不履行などを名目にC一家にも通電されるようになる。8月になるとC・E・Fは勤務先を頻繁に欠席するようになった。
9月までにF一家4人は住民票登録上は熊本県玉名市のマンションに引っ越すという形で保育園児であるHは保育園を8月末で退園し、玉名市での居住実態はなくGも転校先の小学校に通わなくなった。
Fは9月19日を最後に事務所に出社しなくなった。
金が足りなくなるとCは農協からお金を借りたり、Dが消費者金融から金を借りたり、EやFを退職させて退職金を作るなどして、XはY一家に計6300万円を貢がせた。EとFの退職は有給休暇を使い切った後の10月31日付けの退職届が勤務先のポストに投函され、Eは職場や上司の自宅まで電話して、退職金早期支払いを求めた。C一家はCの父名義の土地の売却を画策するも、C一家4人の行動を不審に思った親類が売却できないように資産保全を図る仮登記で対応。Cは弟に仮登記解除を求めるも拒否された。
C一家4人はXの指示で親類に対して仮登記解除を求める手紙を送りつけた。また、Cの親族の家周辺に近づくC一家に指名手配中のXとYを逮捕するために張り込むようになった。
C一家の親族に警察が張り込んでいることを知ったXはC一家に金を貢がせる術が無くなったとして、最終的に監禁状態にした。C一家がXに貢いだ金は総計で約6300万円に上る。その頃、地元ではC一家が失踪したと噂が立った。
監禁状態に置かれた一家は虐待によって自分たちの言うことを聞かせ、さらに個々の弱みにつけこんで互いが争うように疑心暗鬼に陥らせた。マンションの狭い一室、様々ば厳しい制限、情け容赦なく行われる通電により、当時同じようにXの支配下におかれていたAと同様に、XはC一家への支配を確立していった。


■一家六人殺害事件
父C死亡事件
1997年12月、Xは「Gが冷蔵庫の中が整理整頓されておらず、ポン酢の位置がわからない」という些細なことを口実にY一家の家長であるCにの責任であるとして、Yを通じてCを通電させた。
その結果、Cは死亡した(第2の殺人。ただし、裁判では傷害致死と認定)。
死体解体中にクリスマスやXの長男誕生日の記念撮影が行われた。

母D殺害事件
1998年1月、度重なる通電によって奇声を発するようになったYの母親Dの処遇について、XはYとその妹E及びEの夫Fに対応策を練らせた。Dの処遇についてYらが精神病院入院や別の住居に引っ越すなど殺人以外のアイディアをXはことごとく却下して、Yらが殺害を提案すると「一家の決断であること」を強調した。殺害提案が出た後にFが「Dがよくなるかもしれないので、もう少し様子を見るべき」と主張したことに対し、Xは「今は暴れていないが、殺す段階で暴れるようになったら、殺害が困難になる」とまくし立てられた。さらにXは「どうやって殺すんだ」とYらに考える余裕を与えさせないまま、殺害を既定方針として進める。Yらは部屋にあった電気コードをXの許可を得て借りたが、Yが解体道具購入を優先することを提案した際にはXは「買いに行っている間に声が外に漏れたらどうする?」と殺害を優先するように暗に要求した。
Yらに体を押えつけさせた上でFに絞殺させた(第3の殺人)。

妹E殺害事件
1998年2月、別のマンションに移動した後、度重なる通電によって耳が遠くなり娘のGとXの指示の解釈をめぐって口論になったEに対して、Xは「おかしくなった」などと因縁をつけはじめた。そして、XはYに対して「今から向こうのマンション(殺害が行われた場所)に行く。どういう意味がわかるな?」と殺害を示唆。Xは殺害現場のマンションに移動した後で「俺は今から寝る。今から一家で結論を出しておけ」「俺が起きるまでに終わっておけ」とYらに指示した。Xからの殺害の命令を受け取っていたYはFとGは話し合いの中で「Eの殺害を拒否したいが、Xの曖昧な提案の詳細を聞こうとすると通電される」「たとえ、殺害を拒否しても、Eはもっとひどい虐待を受けてつらい思いをした末に殺されるのではないか?」と悩んでいた。話し合いの結果YらはXに中身を聞きに行くことになったが、松永への部屋に向かうドアが開かなかった。Yは「Eの処遇について終わっていないと自分たちもひどい目にあうし、Eは生きていてもつらいだけ」と考えるようになり殺害を決意。Yらに体を押えつけさせた上でFに絞殺させた(第4の殺人)。

義弟F殺害事件
Xによる度重なる通電と食事制限でFが衰弱していき、Xは浴室にFを閉じ込めた。1998年4月、衰弱死させた(第5の殺人)。Yは日々悪化するFについて「病院に連れていかないと死んでしまうと思ったが、母Dの時に病院に入院させる提案がXに拒否されたので、Fを病院に連れて行こうと考えなかった」と回想しており、殺意について未必の故意を認めていた。

甥H殺害事件
1998年5月、大人たちが全員死亡すると、GはXに対して、「このことは誰にも言いません。弟Hにも言わせません」として、自宅への帰宅を願い出ている。それに対し、Xは「死体をバラバラにしているから、警察に捕まっちゃうよね。Hが何もしゃべらなければいいけど、そうはいかないんじゃないかな。Hは可哀相だから、お母さん(E)のところへ行かせてやる?」と暗にHを殺すことを命じた。GはHに「お母さん(E)のところに連れて行ってあげる」とうそをつき、Yとともに、Hを殺した(第6の殺人)。Hは、大人たちの事情もわからないまま事件に巻き込まれた。

姪G殺害事件
XはGに通電を繰り返して衰弱させ、「太っていたら大変だろ?」という理由でGの食事の量を減らした際に、Yは「太っていたら解体に困るので、XはGの殺害を考えている」と考えた。またXは「あいつは口を割りそうだから処分しなきゃいけない」「あいつは死ぬから食べさせなくていい」とGの殺害に関する発言をした。翌6月にXは浴室でGと二人きりで何度も話し合った後で「Gは死にたいと言っている」としてGが頷いたことを受け、XはYとAにGを絞殺させた。そのとき、Gは静かに横たわり、首を絞めやすいように首を持ち上げたという(第7の殺人)。
上記の事件について、XがYとその一族に遺体の解体を命じた。

■女性詐欺事件
Xは新しい金主として夫との不仲に悩む専業主婦に焦点を当てる。Xは女性に対して悩みを聞きだし、夫と離婚して自分と一緒になることを求めた。Xは女性に対して「夫の狙いは子供だから子供だけでも私が預かって隠したほうがいい」と女性の2人の子供(双子)を預かる一方で、養育費名目でを要求した。女性が金を工面できなくなるとXは紹介した風俗店で女性を働かせて、女性から約2500万円を貢がせていた。
女性の2人子供(双子)とXとYの2人の子供の計4人はYやAによって育てられることになった。その際に、Xの長男は外出先のXから電話を通じてAに暴力をふるうこともあった。
この事件は被害届が出されていないこともあって、刑事事件となっていない。

■少女逃亡失敗監禁事件
2002年1月30日に少女AがXの隙をみて 北九州に住む祖父母の家へ逃亡。成功して半月ほど祖父母と一緒に暮らしをしてアルバイト先を決めたり、国民健康保険に加入したりと生活の基盤を築き始めていた。
しかし、2月14日にXの交際相手であるM(Aの伯母であり、Bの姉にあたる)よりXに行方がばれ、強引に連れ戻される。Aは連れ戻される直前に祖父母に「おじさんの話は全部ウソ。迎えにきて」と走り書きのメモを渡す。
その後、少女AはXとYから首を絞められたり通電されたり、命令で自分でペンチを動かして爪をはがすなどの虐待を受けた。


■発覚
2002年3月6日、少女A(当時17歳)が祖父の家に助けを求めてきたことから事件が発覚した。翌3月7日、XとYはAに対する監禁致傷罪で逮捕された。XとYは、容疑や名前も含めて完全黙秘を続け、身分証は偽造されたものばかりであったため、当初は身元が不明であったが、Yが所持していた高校時の写真集をきっかけに判明した。
当初はXとYの2人によるAへの傷害と監禁事件と思われた。その後、Aの証言により、XとYは、Aの父親B(当時34歳)の知り合いで、5~6年前から4人で暮らすようになったが、暮らし始めて約1年後にBが行方不明になり、その後は3人で暮らしていたとされた。
後日、別の場所で、Aが世話をさせられていた4人の子どもが発見された。2人についてはDNA鑑定でXとYの子供と判明した。残り2人は双子で、別の女性の家庭の不和につけ込んで預かった子供であった。
数日後、Aが「BはXとYに殺された」と証言したため、殺人事件として捜査される。さらにAは、Yの家族6人が殺害され、遺体は解体されて海などに捨てられたと証言したため、大量殺人事件として捜査されるようになった。
警察は、Aの証言を元に「殺害現場と思われる場所の配管」まで切り出し、DNA鑑定を行ったが、Xが配管や浴室のタイルを交換するなどの証拠隠滅工作をしたことや、7人の遺体がすでに完全に消滅しているために、物的証拠が何もないという状態であった。
Yは長い間黙秘をしていたが2002年10月23日に自白したことで、改めて事件の概要が判明した。脅迫や虐待をされる中で被害者たちが作成させられた「事実確認書」等の書類、AとYの供述から解体に使われたノコギリやミキサー等の死体処理道具を購入した時期を示す領収書、AとYの供述から証言からB殺害事件に使用されて河川に遺棄されたノコギリの発見、死体解体時の音や匂いやゴキブリ大量発生を不審に思ったマンション住人の証言など物的証拠が殆どない中で間接証拠が集められた。
Yは逮捕後の獄中生活について「食事もできるし、お風呂にも自由に入れるし、トイレにも自由に生かせてもらえるし、読書の時間さえある」と語っている。
YとAに育てられていた4人の内、被害女性の子供2人は親元に戻された。XとYの子供2人(当時9歳と6歳)は児童福祉施設から小学校に通うようになったが、当時9歳だったXの長男は今までの人生について「あまり面白いことがなかったから、0歳から人生をやり直したい」と感想を残している。
2003年7月に空の骨つぼに6人の顔写真を入れてC一家6人の告別式が行われた。またF一家4人の全員の集合写真がなかったため、Fの実家には合成したF一家4人の集合写真が飾られている。


■手法

Xがこの事件で用いた手法は以下の通りである。
弱み
Xはまず対象者に言葉巧みに近づいて信用させる一方で、何かしらの弱みを握る。Xは対象者に酒を飲ませて言葉巧みに気分をよくさせて相手側から弱みを吐かせることが多かった。
そして、Xは相手の弱みに乗じて対象者に自分に金を持ってくることを要求させた。Xはこのような対象者を「金主」と呼んでいた。豊田正義によると、Xの金主のターゲットとなった者は「純粋な性格だが間が抜けている」「実家がそこそこ裕福である」「子供がいる」といった特徴があるという。
虐待
相手の弱みを握ったXは被害者に対して様々な暴力・虐待を強いた。
特に電気ショックはXが相手を支配するのに非常に重要なツールだった。
原点はXが経営する会社に在籍していた工業高校電気化卒の従業員から得た知識を生かして考案したものであった。当初は軽い痛み程度のお遊びであったが、それを目撃したXが関心を示し、電気ショックを虐待に使用できるようにしていった。
Xは電気ショックを「通電」と呼び、裸にした電気コードの先にクリップをつけ身体に挟んで瞬間的に電流を流す方法が主に用いられた。激痛が走り目の前は真っ白になり患部は火傷を起こし酷い時には水ぶくれになる。通電する際の部位には手・腕・足・太股・乳首・口や耳や顎など顔が対象であった。
それだけではなく、サディズムの象徴である性器に対し、男女関係なく通電することがあった。性器への通電は、裸で仰向けに膝を曲げて寝かされた状態で行われた。2人が横に並んで同じように裸で仰向けに膝を曲げて寝かされた格好をすることもあった。
通電を受けた者から「肉が食い込み、締め付けられ、ちぎれるような熱間で身体がよじれ、息ができず歯を食いしばった(元従業員)」「脳天に突き上げられる衝撃で目の前が真っ暗になって倒れて気を失った(元従業員)」「筋肉が引きつって痛くて火傷をし、一発で気持ちをへし折られてしまう(Xから通電された男性)」、性器の通電を受けた者から「性的な意味で自分という人間を否定されるような屈辱感があり、石にでもなってしまいたかった(Y)」という証言が残っている。
Xは通電について、被害者らへのしつけが目的の「秩序型通電」とXが腹を立てた時の「激昂型通電」の二種類であったとしている。通電の前には必ず理由が言い渡され、どんな些細な出来事も理由になった。
Yは「Xは通電を含めた虐待を酒を飲む際の肴にしていたように感じた」と証言している。
なお、虐待は5歳男児Hのみは免れていたが、10歳女児Gや1996~1997年監禁事件の3歳女児も対象となった。

文書
Xは数々の「事実確認書」などの文書を作ったり、作らせたりした。これらの中には「弱み」「虐待」を盾に被害者に作らせたものもあった。
主に以下のようなものがあった。
被害者が将来において文書の中身を実行するもの
相手にXの利益になる無理難題を実行させることを約束させるもので、相手に文書の中身について実行させなければならないと思わせるように仕向けた。
被害者が過去の弱みを告白するもの
署名したことを理由に被害者の弱みを握ったりX自身の責任を逃れるように仕向けた。文書の中身が真実でなくても真実であるように思い込ませて逃亡を考えさせない材料にしていた。
Xが将来において文書の中身を実行させると思い込まれるようなもの
相手に文書の中身についてXがさも将来において実行するかのように思わせた。
また、これら文書の多くに「和やかな雰囲気の内に作成した」という不自然な一文が記入されていたり、文書を読み上げてテープで録音するなどしており、これに基づきXは「全員が納得の上で文書を作成した」と主張した。


生活制限ルール
Xは相手の「弱み」「虐待」「文書」を盾に、「衣服」「移動」「睡眠」「食事」「排泄」「外出」など様々な生活制限ルールを強いた。

衣服制限
衣服は薄着で防寒にならないものが多かった。例として「真冬に袖をめくったカッターシャツと裾を捲った長ズボン」「与えられたジャージとスウェット」がある。
さらにひどくなると上着が使えなくなった。
また1着しか与えられず、ごくたまにしか洗濯が許されなかった。

移動制限
部屋の中を移動するにも、一部において一方向に背を向けながら移動させたり、匍匐前進を義務付けた。

睡眠制限
布団などまともな寝具は使えず、週刊誌を敷いて新聞紙をかぶせるだけになった。台所で雑魚寝だが、いびきがうるさいと扉と窓に南京錠がかかった浴室に常時閉じ込められた。昼間に3、4時間の睡眠で昼夜逆転の生活であった。

会話制限
Xの許可が無い会話は禁止された。

食事制限
食事は1日1回又は2回。床に敷いた新聞紙や広告紙に「そんきょ」の姿勢を取って食べなければならなかった。
7分~15分の時間制限があり、他の被害者が監視役としてタイマーで測った。
食事の例として「ラーメンの出前」「コンビニ弁当」「コンビニ白米御飯」「食パン」「菓子パン」「カロリーメイト」「生卵」で、殆どが簡易な食事だった。

排泄制限
トイレに行くときはXの許可が必要。小便は浴室か台所にあるペットボトルにすることが義務付けられた。大便は1日1回で便器に腰掛け禁止。便座の腰掛け等は他の被害者(異性であることが多い)が監視役を担当した。

物使用制限
基本的に物を使用する際にはXの許可がなければ使用することができなかった。
例として「ファンヒーター」「布団乾燥機」「絞殺道具」「死体解体道具」がある。

外出制限
マンションに来ると運転免許証と車のキーが取り上げられた。玄関ドアのチェーンに南京錠で施錠されて自由な外出が禁止された。
外出時には携帯電話で頻繁に連絡を入れて、どこで何をしているのか報告しなければならなくなった。Xには大体の地理が頭に入っていて、想定の時間内に所定の場所に到着することを求めた。
またガソリン代や駐車料金は逐一Xに報告して代金を貰い、借用書を書かされる等して必要最低限のお金しか持てなかった。
これら生活制限ルールの違反をした被害者は、Xによるさらなる虐待を受けた。これらによって被害者は精神的に追い詰められることになった。その一方で、Xは時々外食をさせたり、マンション内の食事に1品つけることがあり、被害者たちに幸福を感じさせて一層Xに服従するように仕向けた。

マインドコントロール
Xはは相手の「弱み」「虐待」「文書」を盾に、「食事」「排泄」「睡眠」「外出」など様々な生活制限を強き、自分を頂点とする密室の支配構造を強いて被害者を序列化した。通電される者は下位の人間であり、どんなに些細な理由でもXの意向で被害者は通電された。
またXは、被害者が別の被害者の悪口や不満を述べれば序列の下位から免れるように仕向け、Xは被害者たちの悪口を聞き出したりXがそれらの悪口や不満を当事者である被害者に吹聴させることによって、被害者たちがお互いを憎しみ合うように仕向けた。また被害者はXの指示で上位の被害者が下位の被害者に対して通電するようになり、逆らえば序列の下位に落とされて通電されるため逆らえず、誰かが下位に下がれば他の者は安堵し、家族を裏切ることも厭わずにXの関心を得ようとしてXに絶対服従するようになった。そのため、被害者たちの敵対関係に陥って個々人が孤立してしまい、一致団結してXに逆らうということが無くなった。
またこれらのマインドコントロールは、後に被害者が親族である他の被害者を攻撃することに抵抗感を無くさせ、Xは自らの手を汚さずに被害者に殺人や死体解体をさせる素地の一つとなった。
これらXによるヒエラルキー構造は「"ワンマン的リーダーX"と"Xの利益を最優先目的とするXの指示を絶対視して絶対服従する複数の奴隷"」「支配と服従の密室」「人間を完全に受動的存在たらしめるためのX流ドクトリン」、「秩序もなにもない密室」、「密室の中での絶対的な権力」と表現された。


■殺人・死体解体
Xは直接実行をしなかったが、Yらへのマインドコントロールを通じて、以下のことを実行した。

殺人
Xは金を巻き上げられなくなって用済みになると、自分の手を汚さずに支配している人間を誘導して殺害をさせるよう仕向けた。
Xは全て被害者が直接着手するよう仕向けた。またXは被害者らに問題処理の決断を迫る際に殺害以外の選択肢をことごとく却下して、最終的に被害者らに殺人を選択させるように仕向けさせた。Xは絞殺をする際には首を絞める役割の人間と足を押さえる役割の人間を指定することはあったが、誰かに「○○を殺すしかないと思う」「死亡したお母さんに会いたい」「死にたい」と言質を取らせ、自分が殺人を考えたのではないと主張した。
上記の経緯から殺害の実行行為に着手せず明確に「殺す」という言質を出さなかったXを殺人罪で裁くことが出来るのかが裁判で注目された。

死体処理
遺体は浴室でのこぎりとミキサーで分解し、鍋で煮込んで解体処理するようにアイディアを出し、被害者に選択させ、死体解体の進捗状況が遅いと虐待で急かすように仕向けた。解体された遺体を海や公衆便所などに投棄した。
Xはこの死体処理手法について「私のオリジナル。魚屋の本を読んで応用し、佃煮を作る要領」と述べている。
また水道管や浴室のタイルなどを交換して、証拠を隠滅した。そのため、遺骨や血痕などの殺害の直接証拠が全く無く、捜査機関はAおよびYの証言に依拠せざるを得なかった。
3歳女児まで虐待したり、元幼稚園教諭に児童を殺害・死体処理をさせたり、元警察官に殺害・死体処理をさせたり、10歳女児に家族の殺害・死体処理をさせたり、残った女児も容赦なく殺すのは前代未聞である。第一審判決では、この点について「見逃せないのは、児童が犯行の巻き添えや痛ましい犠牲になっていることである。これらは犯行の残忍で冷酷な側面を如実に示している」と指摘している。
また生存者であるAも死体処理に加担し、また殺害において1人は首を絞めて直接絞殺し、もう1人は足を押さえて殺害行為に加担し、計2人の殺害をしたことにはなる(なおAは当時13歳だったため、14歳未満の刑事責任を問うことを禁じた少年法の規定により刑事責任には問われない)。


■裁判

一審
裁判でYは少女の父Bと自分の父Cの死亡について傷害致死を主張したが、他の4人の殺害を含めて全面的に刑事責任を認める。一方でXは死亡事件について当初は全面無罪を主張した。このように両被告の方針が分かれた場合は分離公判になることが珍しくないが、Yが「最後までXという男を見届けたい」とXとの併合審理を希望したため撤回された。
Xは「7人の死について事故やYの一家が殺害したものによるもの、Y一家の問題への関与を避けていた自分に責任はない」「自分には殺す動機が無い」「自分はBとC以外の死亡現場には立ち会っていない」「Cの死亡前に子供たちを旅館に移動させたので、子供たちはCの死亡を目撃してない」と主張して、殺人罪傷害致死罪の無罪を主張した。「自分はYとDとEと肉体関係があったため、各自が嫉妬して三角関係にまきこまれた被害者」とも主張していた。ただXの主張には「Cの会社設立は借金状態から無理」「無職のEにサラ金から借金できない」「Cの死亡を目撃していたAは死亡経緯を詳細に証言できた」等の矛盾が多く、変遷することも珍しくなかった。極悪非道な手口で7人の命を奪った凶悪大量殺人事件にも関わらず、法廷でのXの発言は煮ても焼いても喰えないような言葉ばかりで漫談を聞いているような錯覚に陥り一気に緊迫感が無くなることが度々あったという。
また、以下の証人の証言が注目された。
父Bを殺されて自分も虐待されたAはビデオリンク方式で『私にはXとYが悪魔に見えました。』『父の敵はきっと私が取ります。ここまで苦しめられた敵を取る方法はXとY両方ともが死刑になることです。』と語気を強めて発言した。
1996~1997年の監禁事件の被害女性はビデオリンク方式において検察の尋問がかつてのXからの通電時の尋問に重ねてしまうストレスのために医師から血圧と脈拍を測定して薬が投与されながら証言するも、開廷から20分で身体が言うことをきかなくなって声が出なくなったために裁判長が打ち切りを決めた直後に『どうかXを極刑にして下さい。望むことはただそれだけです。』と震える声で訴えた。
子F・孫G・孫H・嫁Eの4人を殺されたFの母は『(出産時に)お腹を痛めたことがある者として、(出産経験がある)Yに聞きたい。Gから「何も言いませんから、お父さんの実家に帰してください」と言われた時に、どうして同じ年頃の子供を持つ母親として、子供の願いを感じられなかったのですか?』とYに訴えた。法廷証言をする際にFの母が身に着けていた腕時計は、Fが警察官になる前にガソリンスタンドのアルバイトによる初めての給料で母にプレゼントするために買った物であった。
2005年3月2日、検察は論告で「善悪のタガが外れた発案者Xと指示にひたすら従う実行者Yとして、車輪の両輪とも言える関係に成り果てていた」と表現し、「稀代の連続大量殺人事件で両被告の刑事責任は我が国犯罪史上、比肩するものがないほと重大である。金づるとして利用価値がなくなった被害者の口封じに七人も抹殺するという鬼畜の所業をやってのけた両被告には極刑を持って望むのが相当」と、XとYに死刑を求刑した。XとYの関係について、佐木隆三は「ムチを振るう御者Xとひた走る馬Y」と表現している。
2005年9月28日、福岡地方裁判所小倉支部において第一審判決が下された。裁判所は、Xの支配下に置かれてお互いを憎み合っていたYとAの証言がほとんど一致し、Yは自分にとって不利なことも進んで証言していること、一方、無罪を主張するXの証言には矛盾が多く一貫性がないことなどから、XとYがB、C、D、E、F、H、Gの計7人を死に至らしめたと認定した。ただし、Yは主張していたBとCの傷害致死については、Cについては「蘇生させようとした」ことから殺意はみとめられないとして「傷害致死」としたが、Bを含めたそれ以外の死亡を「殺人」と認定した。なおEやFは殺害に関与しているが、XとYが事件にEとFを巻き込んだ性格から、判決では「何の落ち度もない被害者」とされている。
裁判所は一連の事件を「甚だしい人命無視の態度には戦慄(せんりつ)を覚える」「残酷、非道で血も涙も感じられない」「悪質さが突出し、犯罪史上まれに見る凶悪事件」と厳しく非難し、Xを「一連の事件の首謀者であり最大の非難に値する」「真摯な反省や謝罪が無く、犯罪性向は強固で根深く矯正の見通しは立たない」、Yを「被害者に対して常に高圧的な態度で臨むなど、主体的で積極的に加担した」として、XとY両方に死刑の判決を下した。

上訴審
Xは控訴。Yは当初は死刑判決を受け入れるつもりでいたが、暴力の影響や支配構造等の事件の核心を審理するために弁護団の控訴に同意。
二審ではYの弁護団はYの心理鑑定、Xに撮影されたYの裸写真の法廷提出、法廷における「DV」という言葉の多用、性暴力被害の専門家の法廷証言、性暴力被害者団体による減刑を求める署名など、一審にない手法を用いて性暴力を含めたドメスティック・バイオレンスの観点から事件当時はYの判断力が著しく低下していたとして減刑を求めた。
2007年9月26日に福岡高裁で判決が下された。Xの死刑判決が維持された。一方でYについては「Fが元警察官でありながら解体作業や殺害などに加担したことから、Xによる通電などの虐待が被害者の人格に影響を与えていたことを考慮し、Xに暴力支配を受けており従属的だった」と指摘し、捜査段階での自白や公判での反省の態度も考慮されて無期懲役に減刑された。Xはこれに不服を唱え即座に上告、Yについては「量刑不当」として検察側が上告した。
2011年12月、最高裁はXの上告及びYに対する検察の上告双方を棄却し、Xの死刑とYの無期懲役が確定した。Yに対しては「死刑の選択も十分考えなければならないが、異常な虐待を長期間繰り返し加えられ、指示に従わないことが難しい心理状態の下でXに追従して犯行に加担した点や捜査段階での自白が真相解明につながった点も極刑に処するほかないとは断定しがたい」とした。また、横田尤孝最高裁判事がYについて「抵抗する力も言葉も持たない5歳の甥と10歳の姪の殺害を実行した。諸事情を全て被告に有利に考えても、他に例を見ない凶悪重大性にかんがみれば極刑で臨むほかない」と死刑寄りの反対意見を出した。


民事訴訟

福岡県警は2002年にB殺害事件が発覚した際に「Aは遅くとも中学校に入学した1997年4月以降は、周囲に相談したり通報したりすることができた」が1999年4月で申請期限が過ぎたとして犯罪被害者給付金は支給できないと判断して、女性や親族に給付金制度の存在を知らせていなかった。2006年2月に犯罪被害者給付金制度の存在を知ったAは福岡県公安委員会に対し、B殺害事件について犯罪被害者等給付金支給法に基づき給付金を申請した。福岡県公安委員会は、申請時点でBが殺害されてから10年が経過しているとして、2007年3月に申請を却下し不支給と裁定。不支給裁定に対し、Aは「申請に必要な死亡診断書や死体検案書などが存在しないこと、実質的に監禁されていて申請できなかったこと」などの理由を挙げて、福岡地方裁判所に支給を求め訴えを起こした。
2010年7月8日に同地裁は、「Aには期限内に申請ができない特別な事情があったのに、機械的に申請期限を当てはめるのは、被害者救済を目的とする制度の趣旨や正義の観念に著しく反する」とし、殺人が認定された刑事訴訟一審判決の2005年9月を申請期限の起点と認定して福岡県公安委員会の裁定を取り消す判決を言い渡した。2011年9月に最高裁で不支給取り消しが確定し、福岡県公安委員会はAに給付金を支給した。


■死亡者の行動心理

この事件の死亡者は他者から見て不可解な行動(「詐欺の指名手配で逃亡しているXやYを警察に伝えて、捕まえることはできなかったのか」「Xからひどい虐待されているのに、何故逃げずにXの言いなりになったのか?」「Xから握られた弱みは、Xからひどい虐待を受けながら殺されるほど深刻なことだったのか?」「夫がいる身にも関わらず娘又は姉の交際相手と肉体関係を持ったことのは何故か?」等)がいくつかあるが、死亡者の場合は「死人に口なし」として行動心理を本人から聞き出せず不明なままとなっている。
死亡者の親族であり生存者であるYは『(Xとの出会いをきっかけとする一連の事件など「Xとの20年間」について)今思うと全てが異常でした。今の私にはあの時の当時の自分が信じられません。どうしてあんなことができたのだろうと思います。』『自首しなかったのはXが逮捕されて迷惑をかけ、Aの世間の冷たい視線に晒されると思っていたため』『(逃げずにXと行動を共にしていたことについて)逃げる所も行く所もないと考えたが、それ以上深くは考えなかった』『監禁されていたBは娘Aを連れ出す・置き去りに関わらず、監視や施錠によって逃亡するのは不可能だった』と答えている。なおYはCとDが言うことを従わっていた理由として、『父C・母DがXの言うことに従わなければ、親戚に危害が及ぶと思っていたから』と語っている。


■その他

新堂冬樹の小説「殺し合う家族」はこの事件をモチーフとしている。





参考サイト&さらに詳細
http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/ikka.htm (引用:事件)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%9B%A3%E7%A6%81%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (引用:概要・人物・事件詳細以下)

まとめ
https://docs.google.com/document/d/15THHgxepPxfB3ybRf3PWSJr0MA16MQGLq-jwZ651mMg/edit?pli=1&hl=ja




今回の事件、主犯格の男によって洗脳され、家族間で殺し合い、憎しみ合うという残虐な事件です。特に親がわが子を殺めたり、幼い子供さえも兄弟や歳の近い子を殺してしまってるという点には戦慄を覚えます。
この事件、あまりの残虐性によりマスコミですら報道規制がとられてあまり知られておりません。
読んでる際に激しい不快感を感じ得ざるを得ませんでした。
あと、家族の絆がこんなにも壊されてしまったことに激しいショックを受けました・・・。